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むつきさっち

Author:むつきさっち
野良学者やってます。
読んだ本とか研究用のメモを置いていきます。
きまぐれなので分野はあっちこっちにいく予定。
とりあえず哲学とか生物学あたりから書いていきます。

20/7/2:カテゴリでの表示順を古い順に変更しました。それに伴いカテゴリの最初のページ下に、各メモ先頭のリンクを貼りました。

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木田元『現代の哲学』1章-3メモ
1-3 現代哲学の課題

1章の最後は、19世紀の数学および人間諸科学の危機に対する、哲学による応答についてです。
近代の哲学や科学は、「合理的秩序をそなえた客観的世界」と、「その秩序に近接しうる理性」を前提に成立していました。
そういった前提が目に見えて崩れ出したのが19世紀後半です。

「宇宙を貫く自然法則が人間の理性的認識によってうまく捉えられるようになっているとか、逆に人間の理性が自然の即自的な構造に適合すべくできているというのは、」少しできすぎた話です。
こうした考え方を持ち出してきたデカルトやライプニッツ達がこの点に気づいていないはずはなくて、だからこそ自然科学者であり、形而上学によるその基礎づけを試みていました。
そのような哲学者の代表者で最後の一人がカントです。
彼らはみな、理性によせる信頼のもつある素朴さに気づいていたと思われます。

しかしカントの<批判>によって、絶え間なく続けられるべき理性への反省が、すでに終わったもののように受け取られ、「一方では、<客観的世界>が自明なものとして無反省に前提され」た結果、「19世紀の楽観的な科学的合理主義が生まれ」、他方では、「人間理性が制約から解き放たれて」、「歴史や社会を合理的に形成していくヘーゲル流の絶対精神にまで高まって」いきました。

こういった考え方に対する抵抗は19世紀はじめには起こっていて、マルクス主義やキルケゴールなどの実存主義がこれにあたるそうです。
マルクスの考えをごく簡単にまとめると、客体としての人間を見ることはできても人間の主体的側面を捉えられない従来の唯物論も、それには成功しても逆に「人間存在の自然的・感性的側面」を捉えきれない観念論も、いずれも一面的だ、というものです。

「実存」の言葉はヘーゲル没後のシェリング後期から使われるのですが、シェリングにおいては神学的な思弁において現れてきた言葉で、人間の主体的な実存として捉えなおされたのはキルケゴールからとのことです。
キルケゴールらにとっての「実存」がどのようなものであったか、次のようにまとめられています。
「<実存>ということばのもとに求められていたのは、すべてを明確に見とおしうる理性主観でもなければ、おのれに与えられた軌道をそのまま辿ればよいといった物でもなく、あるべきかあらざるべきか、またあるとしてもいかにあるべきかと、自己の存在をただひとりで主体的に引き受けていかねばならない具体的な人間存在のそのあり方だったのである。」
こうした「理性」への抵抗はベルクソン、ディルタイ、ニイチェらに受け継がれていきます。

現代哲学は19世紀以来のこうした哲学的志向を受け継いでいますが、これは哲学に限らず、自然科学や人間諸科学の領域においても同様の動向が現れています。
現代哲学に負わされた課題の一つは、このような共通の方向を持つ努力を集約することであるでしょう。
その試みはすでに、現象学を方法的な立場とする一群の哲学者たちにより、実践が開始されています。

以上がだいたいの要約で、もう一度確認なんですが、この本は1969年の本なので、上で述べられている運動がまだ継続されていた時代に書かれた本なのでしょう。
悲しいことにその運動も挫折してしまうことだけは確かです。
その辺の事情はよくわからないのですが、東浩紀とかの本に書いてあったはずなので、そのうちメモをとる予定です。
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哲学 | 21:49:00 | コメント(0)
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