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むつきさっち

Author:むつきさっち
野良学者やってます。
読んだ本とか研究用のメモを置いていきます。
きまぐれなので分野はあっちこっちにいく予定。
とりあえず哲学とか生物学あたりから書いていきます。

20/7/2:カテゴリでの表示順を古い順に変更しました。それに伴いカテゴリの最初のページ下に、各メモ先頭のリンクを貼りました。

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稲葉振一郎「経済学という教養」第4章メモ6
4-6 「講座派」の復権

まず発展段階論からなる「日本型経済システム」論を振り返ってみます。
日本の場合、第一次世界大戦期か戦間期あたりまで、軽工業主導のスミス=ワルラス的経済モデルがかなりよく当てはまる時代でした。
しかし重化学工業主導に産業構造が転換し大企業中心となると、長期間にわたる巨大な設備投資の必要性から、結果として企業内、企業外において長期的取引関係が発達します。
このような長期取引関係は、不況と失業を生み出しやすく、ケインズ政策、福祉国家が必要とされる所以です(「独占資本主義」)。

以下、「構造改革主義者」たちの意見です。
かなり短絡化していうと、20世紀末には「ハイテク」の産業構造に変わって、大企業の時代は終わったのに、日本の企業も政府も、前段階の成功パターンから抜け出すことができない。
これが現在の不況の正体だ、という考えです。

ここまでの解釈は「労農派」の子孫、日本資本主義の普遍性や先進性を強調する立場からのものです。
もう一方の講座派も死に絶えたわけではなくて、こちらは「むしろ日本社会の前近代性こそが、一見逆説的にもその超近代化を促進しているのではないか」と考えたようです。

彼らの考え方では、19世紀に市民社会が一度成立しており、国家や巨大企業による自由への脅威に対し、ヨーロッパでは自由な個人と市民社会がこれに歯止めをかける、ということになっています。
日本では「自由な個人と市民社会の伝統は不十分であり」、「伝統社会の集団主義がそのまま大企業や国家の論理に転生し、前近代的であるがゆえに超近代的である、そのような不思議な世界ができあがる」、という流れになります。
ただし「構造改革主義」もこの流れを汲んでいると解釈できるらしく、根本的な考え方の違いがあるわけではないみたいです。
なので構造改革主義者の二面性とも考えることができるようです。

ミクロ経済学的な視点からすると、技術の高度化により不確実性と情報の不完全性が増して、市場経済が上手く働かなくなる、つまるところ産業技術が発達しすぎると市場では間に合わなくなる、ということらしいです。
また「新しいミクロ経済学」の視点では、大企業経済も村落共同体も、市場からある程度閉じられた「内輪」の集まりとして、共通の枠組みで考えられているそうです。

以上がこの節の要約になるんですが、ここのところかなり錯綜してて、どこがどうつながっているのかよくわからなくなりました。
ここら辺の議論がどれだけ重要なのかさえ、正直よくわかりません。
この章はもう残りわずかで、章全体の流れがよくわからなくなってるんですが、章のまとめはやらずに次の章に行くことにします。
<<第4章-5   第4章-7>>


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社会システム論 | 16:19:00 | コメント(0)
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